「人権」(human rights)という言葉は、今日様々な機会に耳にするようになりました。日本国憲法も、第三章に人権の規定を置いています。人権とは何か。なぜ人権が必要なのか。今回は、そのことについて考えてみようと思います。人権とは、人間が生まれながらに持っている社会的な権利のことを言います。しかし人権というものは、人間の目には見えません。人権は、人間が創り出した架空の概念であるからです。では何故、人権という概念を人間は創ったのでしょうか。人権という言葉は、大昔から当然に存在していたわけではありません。人権という考え方は、王権に対する諸侯の反発などの様々な過程を経て徐々に形成されたものです。ですから人権という概念は、人間の意志如何によって多様に変化しうるのです。人権はその性質によって、様々な種類に分けることが出来ます。今回は細かい説明はせず、大きく「精神的自由権」と「経済的自由権」と呼ばれるものを取り上げてみます。日本国憲法は、第三章(国民の権利及び義務)において様々な種類の人権を列挙しています。このように憲法に列挙された各種の人権のことを、俗に「人権のカタログ」と呼ぶことがあります。人権のカタログの中で、精神的自由権と言われるものには、思想・良心の自由や信教の自由、表現の自由などがあります。対して、居住・移転の自由や職業選択の自由、財産権の保障は経済的自由権と呼ばれます。経済的自由権というものはそれが侵害された時に目で見ることが可能です。そして、経済的自由権の侵害は事後的な修復が可能な場合があります。対して、精神的自由権が侵害されても、人権が侵害されたということは通常は目に見えません。しかも、精神的自由権が侵害された人を事後的に救済することは殆ど不可能です。この場合、侵害されたのは目に見えない人権であり、お金で解決できる問題ではないからです。このことは、目に見えにくい人権侵害が日々起こっていることと同時に、人権の中でも精神的自由権は特に厚く保護されなければならないということを示しています。では、人権は普遍的なものなのでしょうか。住んでいる国が異なれば、価値観が異なる。だから人権の制約の程度は異なるはずだ、という意見があります。確かに、そのような意見も正論だと思います。しかし「正論」というものには、ポリシーがありません。「~しよう」、「~べきだ」というような目標や方向性が存在しないのです。人間は、正論を語れば語るほどポリシーを失っていきます。自分の身体を正論で塗り固めた人は、他人から批判されることを怖れます。しかし、批判を怖れていては、おそらく何も出来ません。人間はなぜ、この世に生まれてきたのでしょうか。あらゆる人間はこの世界で何かを成し遂げるために生まれてきたのではないか、と私は思います。人間は、正論を言うために生まれてきたわけではありません。国家や価値観が異なるということは本当に、人権が制約されても構わないという理由になるでしょうか。私は、そのようなことによって人権が制約されることは許せません。国家や価値観が異なるということは、人権を制約できる理由にはなっていません。人権は、それをあらゆる人が持つと認められることによって、最終的に人間が人間以外の存在へと向かっていくことを求めているのではないかと私は思います。自分のことを守ることが出来なければ、他のものを守ることは出来ません。しかし、人間は人間だけで生きているわけではありません。人間以外の存在に目を向けられるようになると、人間には生きる希望が生まれてきます。例えば、蛙に対して人権を認める人はいないかもしれません。しかし蛙もまた、人間と同じようにこの世界に生きているのです。ですから、蛙の命も同じように尊重されなければならないと私は思います。この世には、無下に扱って良い命など存在しません。あらゆる人間が、人間自身の問題を一つずつ克服していく。そして、人間の関心を外へと開いていく。一人一人が、生きることに対する不安ではなく生きる歓びを感じられる世界をつくることが、私の目標であり成すべきことだと考えています。

 

憲法 第五版

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  • 作者: 芦部信喜,高橋和之
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